随想
・チキンカレーのもてなし・
カトマンズ発六時五十分。チャーターしたラウンド・クルーザーに乗り込む。同乗者は友人の袖岡さん。めざすはシャブル・ベンシ。私が目薬等の医療ボランティアをするきっかけとなったランタン地域である。
今回のネパール行きの目的は二つあった。一つは目薬と傷薬を運ぶためにシャブル・ベンシの病院とコンタクトをとる事。そしてもう一つは三年半前に知り合った友人、チリング・タマンとその家族に会い、送る約束をしていた写真を彼に手渡すこと、そして彼の手料理をごちそうになることだ。
しかし、いつものように私の脳裏には不安がよぎった。それは今まで会えると思って写真を持って訪ねる度に、見事にその期待を裏切られたからだ。
女優の「根本りつ子」さんとネパールを訪れた時、以前ルンビニで撮影した女の子の写真をポストカードにして、その子供に会えるのを楽しみにルンビニに向かった。ポストカードを手にしながら、「この子に写真を渡したいんだけど、どこの家の子かわかりますか」と村人に尋ねると、村人がたくさん集まってきてポストカードを皆で廻してみていた。すると、その中の一人が「この子は3年くらい前に病気で亡くなった。」と答えたのだ。私は信じられない気持ちでいっぱいになり、言葉もでなかった。
また、友人と3人でネパールを旅したときのことだが、わたくし達は辛いトレッキングの最後の宿泊場所に「ダンプス」の馴染みの山小屋を選んだ。その山小屋は、ネパールティーを飲みながら旅の疲れを癒やすのにもってこいの場所で、日本語が話せる大変愛想の良い看板娘がいるはずだ。
山小屋に着くとお父さんが愛想よく迎えてくれた。私はつかさず「娘さんはお元気ですか?」と尋ねると彼はは一瞬暗いかおになり「娘は昨年の八月に原因不明の病気で亡くなりました」と答えたのだ。われわれは返す言葉もなかった。
ネパールの平均寿命は五十二歳。特に乳幼児の死亡率は非常に高い。このようなことが重なると楽しいはずの旅が屢々憂鬱になる。今回の旅はそうならないことを願った。
五月のネパールは初めてだ。乾季はは10月から3月。雨季は6月から8月。乾季と雨季の狭間のこの時期は、空気もさわやかで過ごしやすい。隣に座っている袖岡さんも爽やかな気候のせいか微笑みを浮かべているようにみえた。
カトマンズ街を抜け、悪路の山道に入る。シャブル・ベンシまでは8時間くらいかかるだろうか。
五千メートル級の山々を超えてやっとシャブル・ベンシに着いたのは三時頃だった。丘の上から村を見下ろすと、山小屋や民家が立ち並び以前の面影はなかった。しかし川の向こうには見覚えのある集落が見えた。
丘を下り河原を歩く。長い吊り橋を渡ると、もうすぐ彼の家だ。だがようやくたどり着いたその家には誰も住んでいなかった。私は肩を落とし、家の前に座り込んでしまった。袖岡さんは近所の子供たちに彼の写真を見せ、どこに住んでいるかを聞いていた。すると子供たちは彼の家に案内してくれると言うのだ。私は子供たちについていった。
家の近くまで行くと、子ども連れの女性がこちらを見ていた。彼の奥さんだ。彼女は私に気がついた様子で、自分の家に走って帰り彼を呼びに行った。突然の訪問に彼は驚き、三年半ぶりの再会を大変喜んでくれた。彼の家族は四人に増えていた。さらにお腹にはもう一人。私の不安は見事に外れた。
家の中に入り、ネパールティーをごちそうになりながら、再会の喜びを語りあった。夕食を一緒に食べようということになり、用意ができるまで近くの山小屋の庭でビールを飲んで待つことにした。すると彼は威勢の良いニワトリを目の前に差し出し「このニワトリが一番美味しそうだから今日はこれを料理する」と言った。もちろん私はOKの合図をした。
二時間程で彼の奥さんが私たちを呼びにきた。この地域は未だに電気が通っておらず、持参したロウソクで明かりをとることにした。テーブルの上を見るとチキンカレーが並べてあった。地鶏の骨付きぶつ切りカレーだ。最高の食材と最高の料理人、そして懐かしい仲間との食事。これほど美味しいチキンカレーは未だに口にしたことがない。夜が更けるまで語り明かした。
来年もまたシャブル・ベンシを訪れる予定だ。
太田淑樹
ふれあいネパール倶楽部
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